第2話

「記憶をなくして目覚めた才能」

沙羅が転校してきてしばらくの間、教室は休み時間になるたびに騒がしくなっていた。みんなが沙羅に詰め寄り、聞けなかったことを聞いたりしているうちに隣のクラスからも訪問者が出てきた。
沙羅は“校内で1・2を争うほどの美女”として評判になっていった。だが本人にはその自覚が無く、気取らない聡明な人柄で後輩からも慕われるようになった。

そんなある日のこと…。
「孝ちゃん」
未柚が自分の席でボーっとしている孝太郎に声をかけた。未柚の横には沙羅がいた。
「どうした?…横にいるのは確か…矢神さんだっけ?」
孝太郎は振り向き、横に沙羅が立っていたのを見て驚く。沙羅は少し悲しくなった。
「紹介しておくね。私の小学校時代からの同級生の沙羅ちゃん。本当なら孝ちゃんも知ってるんだよ」
「そ、そうなんだ…」
孝太郎は少し戸惑っていた。
「よろしくね」
沙羅は気づかれない程度の陰りを持つ笑顔で言い、右手を差し出した。
「あ、あぁ、こちらこそ…」
孝太郎はそういいながら左手で頭をかき、右手を差し出す。そして、二人は握手をした。
これを見て孝太郎を敵視しなかった男子生徒はいない。しかし、孝太郎はまったく気にしてないみたいだった。
―――やはり、俺も本当なら知り合いなのか…。

この後も沙羅に訪問者が殺到したが、生徒の中でただ一人、孝太郎はまるで興味が無いような感じで訪問者に混じったことは一度も無い。
未柚が孝太郎に沙羅を紹介してからは、たまに沙羅の方から孝太郎に声をかけて話す事はあるが、気が合うのか、未柚と同様に友達同士のような感じで話している。

孝太郎は昼は天気の良い日はいつも屋上で未柚が作った弁当を食べている。一人のときもあれば未柚が一緒だったり、別の友人達で輪になって食べたりと様々だ。ちなみに天気の良くない日は教室で食べている。
孝太郎は現在、小学校の頃に住んでいた家で一人暮らしをしている。父親がいるはずなのだが、なぜか一度も家に帰ってこない。記憶を失う前はどうしていたのだろうか?それを知る者は…。

ある日の昼のこと。孝太郎はいつものように屋上に上がり、いくつかあるベンチの一つに座って一人で弁当を食べていた。そこへ一人の生徒がやってきた。孝太郎がそれに気付き、手を止めて見上げると…。
「天気のいい日はいつもここなのね」
「矢神さん…」
沙羅だった。片手には孝太郎の弁当より少し小さめの包みがある。沙羅は昼は色々な所で何人かのグループで食べている。その沙羅が一人でいるのは珍しいことだ。
「隣、いいかな?」
「断る理由もないし、いいぜ」
言い終わって食べ始める。孝太郎は最初の頃はしどろもどろになりながら話していたが、慣れてからは本当に仲の良い友達同士のように話すようになった。
「ありがとう」
沙羅も言い終えると孝太郎の隣に座り、包みを広げて蓋を開け、箸を手に取って食べ始めた。
「未柚ちゃんから聞いたけど、向こうの学校では有名人だったんだってね?」
「みんながそう思ってるだけさ。俺は特に気にしてない」
「どうして、有名人だったの?」
この返事に孝太郎は目を丸くして振り向く。
「どうしてって、未柚から聞かなかったか?」
「未柚ちゃんもくわしくは知らないって。だから…」
―――そっか…未柚は聞いただけで見たことがないんだっけ。
「今は言わなくてもいずれわかるさ。あまり気にするな。大した事じゃない」
それきり、孝太郎も沙羅も何も言わなくなった。
そんな二人をこっそり見ている生徒がいっぱいいた。
そこへ校内放送が響いた。
「緊急事態です。真月動物園(しんげつどうぶつえん)から逃げ出したトラがこの学校に入ってきたとの知らせがありました。生徒は教室に入ったら出入り口を厳重に締めてください。繰り返します…」
それを聞いて二人を見ていた生徒全員が教室に逃げ込んだが、孝太郎と沙羅はまだ屋上にいた。
「と、トラ!?」
沙羅が驚いて立ち上がった。ご丁寧に、弁当などは手に持っているために落としていない。
「あぁ。この学校と前に俺が通っていた真月東高校の丁度間に真月動物園っていうかなり大きな動物園があるんだ。時々そこから色んな動物が逃げ出すらしい。向こうにいた頃もチーターとかサルが迷い込んできたことがあったっけ」
孝太郎は座ったまま焦り一つ見せずに説明した。
「平然な顔で言わないでよ!早く行かなきゃ!」
沙羅が食べかけだった弁当をいそいそとしまいながら言う傍ら、孝太郎はそのままだった。
「もう手遅れだ」
「え?」
そう言って孝太郎に振り向いたとき、トラの鳴き声が聞こえた。
二人一緒に出入り口のほうを見る。一匹のトラが二人を見つけて歩み寄ってきた。
「ど、どうしよう…」
沙羅はあたふたするが、孝太郎は顔色一つ変えずにベンチから立ち上がると、両手をスボンのポケットに入れ、トラと目を見合わせたまま、少し前に出て立ち続けていた。トラは孝太郎からちょっと離れたところから一歩も前に出ていない。
「ち、ちょっと、逃げないの?」
「逃げたら追いかけられて殺される。どっちにしてもそうかもしれないけどね」
「そんな…どうすれば…」
沙羅は死を覚悟していた。心拍数もかなり上がっている。
「どこかに隠れた方がいい。俺が気を引いてるうちに早く」
孝太郎はトラと目を見合わせたまま、焦り一つ見せずに話す。
「孝太郎君はどうするの?」
「後はまかせろ」
「そんな…」
「いいから早く。これで二人死んだらおしまいだ」
「わ、わかったわ…」
沙羅はそう言ってどこかの物陰に隠れると、孝太郎の無事を祈りながら様子を見ていた。
孝太郎は顔色一つ変えずに姿勢を少しも崩さず立っていた。
トラはうなり声を上げながら今にも襲い掛からんばかりの姿勢でいる。
そんな状態がしばらく続いた後、トラはうなり声を上げなくなったと思うと尻尾を振って猫が座るような姿勢になった。
孝太郎はそれを見てトラに歩み寄り、微笑みながら左手であごに触れ、右手で頭を撫でた。
「もう大丈夫だぜ」
孝太郎はトラの頭を撫でながら沙羅に言った。それを聞いた沙羅は恐る恐る歩み寄った。
「本当に大丈夫なの?」
「そうじゃなかったら今頃死んでるぜ」
孝太郎はトラの頭を撫で続ける。そうしているうちに一人の作業服姿の男がやってきた。
「すいません、真月動物園の飼育係をしている者、です…が…」
男は孝太郎に懐いているトラを見て唖然となった。
下手をすれば相手を殺しかねないトラを孝太郎はまるで猫をあやすかのように可愛がってるのだから当然と言えば当然かもしれない。
「大丈夫ですよ。後は俺が檻まで連れて行きます」
孝太郎はそう言って立ち上がり、飼育係の男と一緒に校庭に置いてある檻までトラを連れて行った。
それを教室や職員室から見ていた生徒や教師が驚いたのは言うまでもないだろう。
沙羅はそのまま屋上に残り、ベンチに座って孝太郎が戻ってくるのを待っていた。
「よっす」
出入り口から声が聞こえたので見てみると、孝太郎が無傷で歩いてきた。
「よくあんなことができるわねぇ」
沙羅は感心しながら言う。孝太郎は真月東高校では“暗めの性格でぶっきらぼうだが、凶暴な動物でも簡単にてなづけてしまう不思議な生徒“として校内や近所では有名人だったのだ。
「さて、残りの分を食うか」
孝太郎はさも当然のように弁当を手に取って食べ始める。沙羅もそれに習う。
二人が食べ終わってしばらくした頃に昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
二人で教室に戻る。何事もなかったかのように戻って来た二人を見てみんなは唖然としていた。
そして5限目の授業が始まり、担当の教師が孝太郎に質問した。
「海原、一体どうやってあのトラを大人しくさせた?」
「別に何もしてませんけど?」
孝太郎がきっぱりと応えると、全員が「そんな馬鹿な」と騒ぎ出す。
「日永、何か知ってるか?」
今度は未柚に聞いた。
「私も数日前に初めて知りました。でも記憶喪失になる前の孝ちゃんは小猫でも怖がってたのに…。今はそれどころか、自分から手を伸ばすんです。そして、あのトラみたいに手なずけて…まるで“隠れてた才能が記憶をなくして目覚めた”みたいに…」
―――記憶喪失になる前の俺は小猫でも怖がってた?
孝太郎は意外な事実を知った気分だった。
しばらくして授業が始まった。

そして放課後…。家に帰っても特に何もすることが無く、寄り道するようなところも無い孝太郎は屋上で落下防止用の金網越しに景色を見ていた。その姿を見つけた沙羅が一声かけて横に立つ。
この時、沙羅は孝太郎が自分より少し背が低いことに気がついた。孝太郎も同じだったかもしれない。
お互いに一言も話さない。“二人の間に言葉はいらない”…この言葉が二人にはぴったりだった。
それをこっそり見ている生徒たち。なぜか二人の姿は誰から見てもぴったりだった。
「放課後は、いつもこうしてるの?」
沙羅がそっと声をかける。
「たまにね。公園とかによったりもする。家には誰も居ないから、早く帰ってもしょうがないんだ」
「一人で住んでるの?」
「あぁ、親父はどこに行ったのか分からないし、探す手がかりがないから。内容は変わるけど、人のこと言えない俺が言うのもなんだけど、いつも同じ服装だな?洗濯してるのか?」
「やらないわけないわよ。同じ服が2着あるから変わりばんこで着てるの。制服代わりにね」
「ふ〜ん…にしてもよくそんな服見つけたな」
「オーダーメイドよ。向こうにいた頃にデザイナーと同時に洋裁店を営んでいる友達の親に作ってもらったの。普通の布で作ったから2着で千円ちょっとだったし…」
「ふ〜ん…装飾品もヘアバンド以外何もつけてないんだな」
「イヤリングとかって、あんまり好きじゃないの。偏見かもしれないけど、色々つけて飾ると、それだけ自分の姿を偽ることになるから。私はありのままの自分でいたいの。だめかな?」
「いいんじゃない?俺も今こうしている自分が本当の姿だから」
それきりお互いに何も言わなくなった。そこへ一羽のスズメが飛んできて、ちょっと離れたところに止まった。
「犬とか猫は簡単に懐いてくれるけど、鳥はそうもいかないのよねぇ」
沙羅が独り言のように言うと、孝太郎はそのままの姿勢で視線をスズメに向け、左腕をのばした。
「おいで」
孝太郎がそれだけを言うと、スズメは羽ばたき、孝太郎の左腕に止まった。
孝太郎はそれを確認すると、スズメを肩に近づけてスズメを飛び乗らせた。
スズメは肩に飛び乗ったときは後ろを向いていたが、前に向くとそのまま大人しくしていた。
「いいなぁ。私も孝太郎君みたいに出来たらなぁ…」
「俺にもどうしてこんなことができるのかわからないんだ。それさえわかれば説明できるんだけど…」
こっそり見ていた生徒たちは簡単に懐いたスズメを見て不思議に思っていた。

二人はしばらくして別々に帰っていった。
こっそり見ていた生徒たちのことは二人とも気にしていないようだった。


<あとがき>
実際にはトラはただ目を合わせているだけで大人しくなることはありません。むしろ襲われるかも…。
動物には詳しくないので曖昧な部分があるかもしれませんが、それでも読んでいただけたら幸いです。
短文ですが、以上です。

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