第6話

「戸惑い」

何日か経ち、5月の中旬頃に差し掛かったある日の日曜日。
この日は当然ながら学生にとっては休みである。
孝太郎も沙羅もバイトは休み。沙羅は未柚と約束していると言ってどこかへ出かけていった。
孝太郎は特にすることもなく、あてもなしに外を歩いていたが、通学路の途中にある公園に入って、誰も座ってないベンチを見つけるとそこに腰を下ろした。
―――いい天気だ…。
そう思いながら陽の光を思いっきり浴びる。すると…
ニャオ〜ン
「ん?」
猫の鳴き声がしたので周りを見ると、孝太郎のすぐそばでどこにでもいるような子猫が座っていた。
孝太郎は子猫に手を出し、子猫はそれを見ると導かれるようにして孝太郎の膝の上で丸くなった。
それを見て孝太郎は微笑みながら子猫を優しく撫でた。
―――そう言えば、記憶を失う前の俺は猫でも怖がってたって未柚が言ってたな。どうして怖がってたんだろ?猫って慣れれば結構可愛いのにな…。
そんなことを思いながら子猫を撫でていた時だった。
うわぁー!!!!
だ、誰かー!!!!うちの子を助けて!
子供と母親らしき女性の悲鳴が聞こえたので孝太郎がふと周りを見ると、ちょっと離れたところで年齢にして4歳ぐらいの男の子がその何倍もある栗色の毛をしたクマに襲われていた。
「ど、どうするよ?」
「犬とかならいいけど、クマだぜ。助けてやりたいけど、俺たちも危なくなる」
周りの人たちはクマに怯えて一歩も近づけないようだ。
―――俺の出番か…相手がクマとなると、みんなの態度は普通だ。誰だって命が惜しいからな。
孝太郎はそう思いながら子猫を抱えてベンチから立ち上がって歩き出したと思うと、男の子を庇うようにクマの前に立ち、学校でトラをてなづけた時の様にクマと目を合わせてそのまま立っていた。
「お、おい!見ろ!」
「な!?あいつ、死ぬ気か!?」
周りでこんな声がしたが、孝太郎はまったく気にしてないみたいだった。
子猫はいつの間にか孝太郎の右肩に乗っている。じっとして鳴き声一つ上げない。
クマは最初は四つんばいだったが、孝太郎と目を合わせると立ち上がった。だが、そのまま何もしない。
それからしばらくうなり声を上げていたが、また四つんばいになり、猫が丸くなるような姿勢になった。
孝太郎はそれを確認するとクマに歩み寄り、トラをあやしたときと同じように左手であごの部分に触れ、右手で頭を撫でた。
「大人しく動物園に帰りな」
孝太郎の声を聞き取ったのかはわからないが、クマは大人しくその場を去っていった。
「すっげぇ」
「勇気があるわねぇ」
周りの人たちがそう言ってる中、孝太郎は振り向き、まだ怯えている男の子に歩み寄ってしゃがんで髪を撫でた。
「もう大丈夫だ」
うわ〜ん。怖かったよぉ」
男の子は突然泣き出したが、孝太郎は微笑んで見ていた。
「あ、ありがとうございます」
男の子の母親らしき女性が寄ってきてお礼を言う。
「もう心配はいりません」
そういって立ち上がる。しばらくして男の子は泣き止んだ。
ニャオ〜ン
子猫が孝太郎の肩から降りて男の子に寄っていく。するとさっきまで泣いてたのが笑顔になった。
二人はお礼を言ってその場を去った。
ふと何気なしに時計を見ると、12時に近かった。
沙羅が昼に帰ってくることを思い出した孝太郎はその場を後にした。
周りの人たちがずっと孝太郎に注目していたことを付け加えておこう。

孝太郎は一人で家路を歩く。公園で一緒だった子猫はクマから助けた男の子についていった。
家に着くと入り口の前で沙羅が立っていた。
これを見て、孝太郎は合鍵を作ってないことを思い出し、しまったと思った。
「おかえり。何してたの?」
普通の表情で少し穏やかな口調で問う。
「通学路の途中にある公園で日向ぼっこしてたんだ」
そう言いながらポケットから鍵を取り出して玄関を開ける。クマに襲われた男の子を助けたことは言わなくても良いだろうと思って言わなかった。
「で、矢神さんは未柚と何をやってたんだ?」
「うん、未柚ちゃんのお母さんを先生にして料理の勉強をやってたの」
そう、未柚の母親はグライストというレストランの店長をやっており、その腕前はかなりの評判だ。
未柚は小さな頃から包丁を握らされ、厳しく指導されていたが、子供ながらに厳しさの中に母親としての愛情を感じたのか、途中で投げ出すことはなかった。そのため、未柚の料理の腕も学校ではかなりの評判だ。人気の理由はおそらくこれだろう。
―――未柚が羨ましく思えてくるなぁ。俺も料理の一つぐらいできれば…。
そんなことを思いながらバンダナを外す。バンダナは外にいるときだけ巻いている。

そんなこんなで沙羅は未柚の母親から教わったばかりの料理を作ることにした。
「今日教わったばかりの料理をいきなり作って大丈夫か?」
孝太郎はちょっと不安になって聞いてみた。
「大丈夫よ。向こうで何度も作って成功させてるから」
「なら大丈夫だな。っと、何を作るんだ?」
「ふふふ〜♪内緒〜♪」
沙羅は振り向くと悪戯っぽい表情で答えた。
―――矢神さんって、こんなに可愛かったっけ?
孝太郎は沙羅の仕草にちょっと照れてしまった。
「俺、庭にいるから。飯できたら呼んでくれ」
「OK」
孝太郎は沙羅の返事を聞いて庭に出た。さっきの照れ隠しが理由だろう。
庭に出てようやく落ち着くと、一羽のスズメが飛んできた。
チュンチュン
孝太郎の肩に止まってじっとする。一人と一羽は何をするわけでもなくボーっとしていた。
・・・・・・。
ガラガラ
「できたよー」
沙羅が居間の窓を開けて呼んだ。
「わかった、すぐ行く。ほら…」
孝太郎は肩に乗っているスズメを手に乗せ、近くにある気に向けて手を差し出すと、スズメは木に向かって飛んでいった。
スズメを見送った後、振り返ると沙羅が微笑んでいた。
「どうした?」
「凄いね。スズメを自分の思い通りに木に飛び移らせるなんて…」
「引っ越してきたときからずっと一緒だからなぁ。そのうち矢神さんにも懐くようになるさ」
孝太郎はそう言いながら微笑み返した。
沙羅は思わずドキッとした。孝太郎が自分にむけて微笑んだのは初めてだったからだ。
「へぇ、和食か…」
孝太郎がこう言ったのは、グライストは洋食店だからだ。
「何でもござれって感じよ」
沙羅は両手を腰に当てて満面の笑顔で言う。
「そう言えば、グライストはメニューに和食もあったんだな」
孝太郎はたまに友人たちと出かけたときにグライストに行ったりしていた。
とはいっても、未柚の母親と会うことはなかった。店長ということもあり、多忙な身だからだ。

そんなこんなで二人は料理を食べ始めた。味については未柚には及ばないものの、料理が趣味ということから言うまでもないだろう。
「ねぇ、孝太郎君」
「ん?」
食べている最中に沙羅が呼んだ。孝太郎はそれを聞いて手を止めて顔を上げる。
「お願いがあるんだけど…」
「どんな?」
沙羅は少し俯き加減で話すが、孝太郎はその理由がわからなかった。
「その…私のこと、名前で呼んでくれない?」
え!?
孝太郎は驚くと同時に沙羅が俯き加減で話していた理由を知った。
「私もね、小学校の頃から孝太郎君のこと知ってるのよ。本当なら孝太郎君も私のこと知ってるんだから。なのにいつまでも“矢神さん”なんて呼んで欲しくないなぁ」
―――確かにそうなのだが、俺としてもちょっと抵抗がある。
孝太郎は戸惑っていた。未柚のことも最初の頃は“日永さん”と呼んでたのだ。
―――でもまぁ、未柚のときも最初は抵抗があったけど、しばらくして普通に呼び捨てするようになったんだっけ。
「じ、じゃぁ、最初は無難にさん付けでいかせてもらうよ」
孝太郎は多少戸惑いながらもそう言ったが、
ダメ
と睨みながら沙羅は即答する。
「そ、そんな…」
「だって、瞬君だって知り合って間もないのにお互い呼び捨てにしてるじゃない。なのにそれ以前から知り合ってた私はどうして苗字でしかもさん付けなの?」
―――「あいつは男だから」って言ったら間違いなく“男女差別”って言うだろうな。
「昔の孝太郎君は初対面の私に対してぶっきらぼうに呼び捨てにしたわよ」
孝太郎はこれを聞いて驚いた。
「え!?じゃぁ、今から呼び捨てにしても初めてじゃないってことか?」
それを聞いて沙羅は頷く。孝太郎は少し抵抗感がなくなるのを感じていた。
「じゃぁかつてのように、とは言っても今の俺にとっては初めてだけど、早速そうさせてもらうぜ。沙羅…」
「うん。改めてよろしくね。孝太郎君♪」
沙羅は頬をちょっと赤くしてにっこりと笑いながら言った。
「あぁ。こちらこそ、改めてよろしくな。沙羅…」

そして食事の手が再び動き始める。この日も何気ない一日だったが、二人は少し関係が深くなった。
夕飯に沙羅が張り切っていたことを付け加えておこう。
理由は…言わなくてもわかるだろう。


<あとがき>
かつて(?)のように沙羅を呼び捨てにした孝太郎。
だが、二人の関係はただの同級生ではなかった。それは…。
すべては孝太郎の記憶の中にあります。
ちなみに未柚の母親が働いている店、「グライスト」の参考になった店は、もうお気付きの事と思いますが、「ガスト」です。
短文ですが、以上です。

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