第8話

「揺らぎ始めた気持ち。そして…」

「あまり気にしないほうがいいわ。みんなはどうかわからないけど、私から見たら今の孝太郎君のほうがいいと思うから」
「そうか…まぁ知ってよかったのかもしれないな。記憶を取り戻したら以前の俺に戻ってしまうかもしれないから。それを防ぐには前もって知ったほうがいいかもな」
孝太郎はそう言って立ち上がる。
「そういう考え方もあるにはあるわね。でも、全てを思い出してみんなが知ってる小学校時代の孝太郎君に戻ったとしても、私はこうしてそばにいるから」
これを聞いて見上げると、沙羅は微笑んでいた。
―――全てを包み込む優しさを、沙羅は持っているのか…。
沙羅は一歩前に出て孝太郎を優しく包み込むように抱きしめた。
孝太郎は沙羅の突然の行為に戸惑ったのか、少しも動かなかった。
―――まさか…沙羅は俺のことを…でもどうして?
「私、孝太郎君とは小学校3年の時に知り合ったけど、その時からずっと…」
「…男を見る目がないな」
「そう?」
「あの当時、あんな性格だった俺に対してこんな気持ちになるなんて…」
二人はそれきり何も言わなくなった。

しばらくして二人は体を離し、孝太郎が口を開いた。
「ありがとう。少しだけど、気が楽になった」
「よかった。もう帰ろう?」
それを聞いて孝太郎は頷き、家に向けて歩き出した。
その途中で沙羅が腕を絡ませてきて一瞬焦ったことを付け加えておこう。
そこへ追い討ちをかけるように沙羅は口を開いた。
「孝太郎君」
その口調は穏やかだった。
「ん?」
孝太郎は少し俯いていたが、沙羅の声を聞いて振り向く。
「いつかは、私とキスしようね?」
孝太郎はこれを聞いて真っ赤になる。沙羅はそんな孝太郎を見てクスッと笑った。

この日の夕飯では沙羅はいつもより優しい気持ちになりながら料理をしていた。
味については言うまでもないだろう。


だが、その数日後…。


6月になり、夏の日差しが少し強くなってきた頃、沙羅と未柚、特に沙羅が騒いでいた。
孝太郎が何も言わずに置手紙を残して姿を消したのだった。
内容は「1週間ほど留守にする。俺が帰るまでの間は未柚の家から通ったほうがいいだろう。必ず帰るから」…。
このことを知って学校全体は大騒ぎになったが、担任が朝早くに孝太郎から連絡を受けたことをみんなに教えて少しだが収まった。

一方、孝太郎は朝早くに家を出て、転校してくる前まで住んでいた東区にいたのだった。
―――今年の今月でもう3年目か…。
今月で孝太郎が記憶喪失になって3年目を迎えた。未だに何の手がかりもなく、色々考えて出た答えが記憶を失うきっかけとなった場所に行くことだった。
そして、目撃者の話に出てきた孝太郎が倒れていたと思われる交差点に着いた。ここにくるのは今回が初めてではないのですぐに来ることができた。
記憶を失ったその明くる年からこの時期にここに来て、もう3回目だ。
信号は赤。周りには誰もいない。だが、
「あれ?孝太郎さん?」
女性の声に振り向くと、東校の制服姿でセミロングでストレートのダークブルーの髪。丸いレンズをした眼鏡をかけた同い年ぐらいの女の子がいた。
「え?…由梨香」
日向 由梨香(ひゅうが ゆりか)。孝太郎より一つ下で何故か面識がある。
「久しぶりですね。どうしたのですか?」
「何か記憶の手がかりになる物があればと思ってさ」
「まだ、何も思い出してないのですか?」
孝太郎は何も言わずに頷く。
「そうですか…でも焦らないほうがいいですよ」
「そうだな」
やがて、横断信号が青になる。由梨香は渡ろうとしたが、孝太郎は動かなかった。
「あれ?行かないのですか?」
横に孝太郎がいないことに気付き、後ろを見て聞いた。
「特に行く当てもないしな。どこかに泊まって1週間ほどしたら帰ろうと思う。だから、俺はこれで…」
そう言って微笑んで手を上げる。
「はい。また会いましょう」
そう言って由梨香は横断歩道を歩き始める。孝太郎はその姿を見送ってから背を向けて歩こうとした。
―――!…何だ?
何かが頭の中をよぎり、ゆっくりと横断歩道に振り返ったときだった。
遠くから車が走ってくる。だが、止まる気配がない。このまま行けば…。
由梨香は車に気づく様子もなく、普通に歩いている。孝太郎はとっさに駆け出した。
―――…!…また…何だ?…さっきから…
何かが次々と頭の中をよぎった。それを感じながら走る。
「きゃっ!?」
孝太郎はダイブし、由梨香をしっかりと両腕に抱えてそのまま向こう側の歩道に突っ込むように入った。
いきなりのことで由梨香は鞄を手放してしまい、眼鏡も外れた。
「一体、何が?…孝太郎さん!?」
由梨香は最初はわからなかったが、腰の周りに何かが巻きついていることに気付き、誰かの腕だとわかって後ろを見ると孝太郎がいた。だが、孝太郎は腕の力が抜け、目を閉じたまま少しも動かなかった。
「孝太郎さん!しっかりしてください!!孝太郎さん!!!」
由梨香は孝太郎の体を揺するが、起きる気配がない。
偶然近くを通った人が通報して駆けつけた救急車に二人は乗り、そのまま病院へ直行した。


<あとがき>
病院へ運ばれた孝太郎とそれに同行した由梨香。
はたして、孝太郎はどうなったのだろうか?
原因は次回で明らかになります。
短文ですが、以上です。

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